チヴィタヴェッキア港からローマ市内まで
クルーズ船の寄港地の目玉の一つとしてローマがあります。しかしながらローマにクルーズ船が寄港できるような港は存在せず、実際にチヴィタヴェッキアに入港します。そこから陸路を使ってローマに行かなくてはならないのですが、距離にして約100Kmほどあります。鉄道を使ってもチヴィタヴェッキア駅までの移動も含め1時間半〜2時間ほどは見込んでおく必要があります。
クルーズ船はTerminal Amerigo Vespucci, Civitavecchiaに到着します。徒歩で港内を移動したという情報も見かけますが、現在(2026年時点)では港内を自由に歩くことは許されていないようです。そのため港湾当局が運行するシャトルバス(無料)を利用しなくてはならないようです。数分でLargo della Paceという港湾の入口(出口)に到着します。ちなみにクルーズ船に戻るときも、ここでクルーズカードを提示する必要があります。
Largo della Paceは一種の観光案内所のようになっており,タクシーやバス,現地ツアー等の申し込みもできるようです。
ここからローマに向かう鉄道が発着するチヴィタヴェッキア駅までは、海岸線沿いに徒歩で10〜15分位で到達できます。
支倉常長像
このチヴィタヴェッキア駅に向かう途中、突如として支倉常長の銅像に出くわします。
支倉常長は、江戸時代初期の武士であり、仙台藩主・伊達政宗の命を受けて慶長遣欧使節の正使として太平洋および大西洋を往復した人物です。日本からメキシコ、ヨーロッパへ渡り、ローマ法王に謁見した初めての日本人です。
支倉常長を長とする使節団は、日本人が建造した本格的な洋式帆船「慶長遣欧使節船(のちのサン・ファン・バウティスタ号)」に乗り込み、藩士や随員、商人、そして船員など総勢180名余りを乗せて、1613年9月に月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出航しました。
使節団は、メキシコ、スペイン、フランスなどを経由して1615年(元和元年)10月ローマに到着します。ローマでの常長の活動の中心は、カトリック教会の最高権威であるローマ法王への謁見でした。当時のローマ法王はパウロ5世であり、常長一行は盛大な歓迎を受けてローマ市中に入りました。
1615年11月3日、バチカンのクイリナーレ宮殿において、ローマ法王パウロ5世に対する公式の謁見式が盛大に執り行われました。この謁見の様子は、当時のヨーロッパの画家たちによって絵画に描かれ、また詳細な記録がローマ法王庁の公文書館に残されています。絹の和服に身を包み、刀を差した武士の格好で厳かな宮殿に参内した常長の姿は、ヨーロッパの人々に大きな衝撃と強い印象を与えました。
しかしながら、約7年におよぶ壮大な旅を終え、日本に戻ったときには、かつての華やかな外交使節を迎える政治的環境は完全に失われていました。帰国後の常長の後半生については、歴史的記録が限られていますが、一説には激変した国内のキリスト教弾圧の嵐の中で、主君・政宗の政治的配慮を受けながら静かに暮らしたとされています。
ここに建っている支倉常長の銅像は、1971年に彼の出港地であった宮城県石巻市がチヴィタヴェッキア市に寄贈したものです。これをきっかけとなり、両市は姉妹都市提携を結び、現在も文化交流や周年事業などが続けられています。
チヴィタヴェッキア駅-ローマ・テルミニ駅間は15〜20分間隔で鉄道が運行されています。また各駅停車と座席指定特急があり、各駅停車は4.6ユーロ、特急は11.5ユーロ(いずれも片道)です。所要時間は45〜70分程度です。
ローマ市内の交通手段
- ローマ市内は、ATACが地下鉄・バス・路面電車を運行しています。24時間券:7Euro(2026年藝在)
- またクレジットカードでの車内でのタッチ決済が導入されており、チケット等を購入しなくても、クレジットカードだけで乗り降りが可能です。またカード決済の場合、多くの回数を利用したとしても、自動的に24時間券以上の課金がされないようになっています。ただし、そのためには同一のクレジット・カードを使う必要があります。
Musei Capitolini(美術館)
カピトリーノ美術館(Musei Capitolini)は、イタリアのローマ、カピトリーノ(カンピドリオ)の丘に位置する公開美術館(市立美術館)です。この種の美術館として世界で最も古いものの一つと言われています。古代ローマ帝国の黄金期を今に伝える古代彫刻の宝庫であり、中世から近世にかけての絵画コレクションも併せ持つ、西洋美術史および博物館史において極めて重要な価値を持つ美術館です。
成立の歴史と発展
公共美術館の誕生とルーツ(1471年)
カピトリーノ美術館の起源は、1471年に教皇シクストゥス4世がローマ市民(ローマ市庁)に対して、それまでラテラノ宮殿に保管されていた貴重な古代ブロンズ像群(「カピトリーノの雌狼」、「コンスタンティヌス帝の巨像の断片」、「 spinario(刺を抜く少年)」など)を寄贈したことに遡ります。この寄贈は単なる美術品の移動にとどまらず、それまでローマ教皇庁や貴族の私的所有物であった古代の遺産を「ローマ市民共通の歴史的遺産(公的記憶)」として市民に還元したことを意味し、現代における「市民に開かれた公共美術館(パブリック・ミュージアム)」の始祖とみなされています。
カンピドリオ広場の建設と美術館の拡張
16世紀前半、教皇パウロ3世の命を受けた巨匠ミケランジェロにより、カピトリーノの丘の「カンピドリオ広場(Piazza del Campidoglio)」全体の再開発計画が策定されました。ミケランジェロは市庁舎(元老院宮殿)を中心に、向かい合う2つの対比的な宮殿を設計しました。
- セナトーリオ宮殿(Palazzo Senatorio): 正面中央にあるローマ市庁舎。
- コンセルヴァトーリ宮殿(Palazzo dei Conservatori): 右側に位置し、初期のブロンズ像群などを収蔵。
- ヌオーヴォ宮殿(Palazzo Nuovo): 左側にコンセルヴァトーリ宮殿と対称をなす形で建設(17世紀完成)。
1734年、教皇クレメンス12世の治世において、アルバーニ・コレクションをはじめとする膨大な古代彫刻群が購入・収蔵され、ヌオーヴォ宮殿が一般向けに正式開館しました。これにより、世界の美術史・展示史において実質的な「世界初の大衆公開型美術館」の形が完成しました。
主要な収蔵物
カピトリーノ美術館の展示は、主に「コンセルヴァトーリ宮殿」「ヌオーヴォ宮殿」、および両館を地下で繋ぐ「タブラリウム(古代ローマの文書館跡・連絡通路)」の3つのセクションで構成されています。
古代彫刻およびブロンズ像(コンセルヴァトーリ宮殿・ヌオーヴォ宮殿)
コレクションの中心は、ギリシャ彫刻をローマ時代にコピーしたものや、古代ローマオリジナルのブロンズ像・大理石像です。
- 『カピトリーノの雌狼(Lupa Capitolina)』:ローマ創世神話の英雄である双子の兄弟(ロムルスとレムス)に乳を与える雌狼のブロンズ像。ローマの都市そのものを象徴する最も有名なアイコンの一つです。狼本体はエトルリアまたは中世制作、双子部分は15世紀ルネサンス期に追加されたものです。
- 『マルクス・アウレリウス帝の騎馬像(Statua equestre di Marco Aurelio)』:古代ローマから現存する唯一の完全なブロンズ製皇帝騎馬像。かつて広場中央に置かれていたオリジナル像は、酸性雨などの環境被害から保護するため、現在はコンセルヴァトーリ宮殿内のガラスで覆われた全天候型パティオ(Exedra)に保管・展示されています。広場中央に設置されているのはレプリカですす。
- 『カピトリーノのヴィーナス(Venere Capitolina)』:プラクシテレスの『クニドスのヴィーナス』の流れを汲む、古代ギリシャ・ヘレニズム期の美の至高を表す大理石像。
- 『瀕死のガリア人(Galata morente)』:小アジアにあったペルガモン王国で制作されたヘレニズム彫刻のギリシャ原作を、ローマ時代に緻密に模刻した大理石彫刻。首飾りをつけ、手負いとなり倒れ込みながらも尊厳を保つ敵国ガリア人戦士が表現されています。
- 『刺を抜く少年(Spinario)』:足の裏に刺さった刺を抜こうと集中する少年の姿を描いたヘレニズム期の優美なブロンズ像。
- 『コンスタンティヌス帝の巨像(Colosso di Costantino)』:コンスタンティヌス帝の巨大な大理石像の頭部、手、足などの断片。かつてフォロ・ロマーノのマクセンティウスのバシリカに安置されていたものです。古代ローマ晩期の皇帝権力の圧倒的なスケール感を体感できます。
絵画館(Pinacoteca Capitolina)
コンセルヴァトーリ宮殿の上階には絵画館が併設されており、16〜18世紀のイタリア絵画の名品がズラリと並びます。
- カラヴァッジョ(Caravaggio): 明暗対比が際立つ初期の傑作『女占星術師(La Buona Ventura)』や『洗礼者ヨハネ』。
- ティツィアーノ、ティントレット、グエルチーノ、ルベンクス: ルネサンス〜バロック期を代表する巨匠たちの宗教画・神話画。
カンピドリオ広場
美術館を構成する2つの宮殿に挟まれた「カンピドリオ広場」は、ミケランジェロが設計した舗装の十二角星形の幾何学模様と、奥に向かってハの字型に広がる台形上の配置構造を持っています。この設計は、空間に奥行きと調和をもたらすルネサンス都市計画の傑作と評価されています。
地下地下通路「ガレリア・ラピダリア」と「タブラリウム(Tabularium)」
コンセルヴァトーリ宮殿とヌオーヴォ宮殿の間は、古代ローマの広場(フォロ・ロマーノ)に面した紀元前78年建設の国家文書館跡「タブラリウム」の内部を通る地下連絡通路で接続されています。ここには古代ローマの碑文や墓碑が大量に展示されている(ガレリア・ラピダリア)ほか、タブラリウムの拱廊(アーチ)からは、眼下に広がるフォロ・ロマーノの広大な遺構を一望できるローマ屈指の展望スポットとなっています。
皇帝たちの肖像回廊(Sala dei Imperatori)
ヌオーヴォ宮殿内にある「皇帝の間」には、アウグストゥスからネロ、カラカラ、ディオクレティアヌスに至るまで、古代ローマ帝国の皇帝・皇妃・貴族たちの胸像彫刻が年代順にずらりと並んでいます。コインや歴史書に刻まれた人物たちのリアルな表情や髪型、彫刻技術の変遷を立体的に観察できる貴重な資料となっています。
Foro Romano (フォロ・ロマーノ)
フォロ・ロマーノ(Foro Romano)は、イタリアのローマに位置する古代ローマ時代の中心的広場遺構です。パラティノの丘とカピトリーノの丘の間に広がるこの広大な遺構群は、共和政期から帝政期にかけて古代ローマ帝国の政治、宗教、商業、司法の中心として機能しました。都市ローマの黎明期から繁栄、そして衰退に至る数千年の歴史を直に体感できる巨大な野外歴史遺産として知られています。
成立の歴史と発展
共和政から帝政へ:ローマの心臓部としての隆盛
共和政期(紀元前509年〜)、フォロ・ロマーノには政治の場としての民会広場(コミティウム)や元老院議事堂(クリア)、さらには神々を祀る多くの神殿が次々と建設されました。最高神官が居住するレギア(王宮跡)や、国家の聖なる火を守るヴェスタ神殿などが建てられ、宗教的中心地としても確立されていきます。
紀元前1世紀末、ユリウス・カエサルや初代皇帝アウグストゥスは、自らの権力を象徴するために数々の大規模な再開発(バシリカ・ユリアの建設や神殿の改築など)を行いました。帝政期に入ると人口増加と国家機能の拡大に伴い、皇帝たちは隣接する地に「皇帝たちのフォーラム(Fori Imperiali)」を次々と増設していきますが、フォロ・ロマーノは依然としてローマ帝国の儀礼的・象徴的中心地であり続けました。
衰退と「牛の広場(カンポ・ヴァチーノ)」へ
西ローマ帝国の崩壊(5世紀)後、自然災害や蛮族の侵入、そしてキリスト教化に伴う神殿の放置により、フォロ・ロマーノは徐々に荒廃していきました。中世から近世にかけては、建設資材の大規模な採取場(石切場)として扱われ、大理石や彫刻が剥ぎ取られたり、焼き払われて石灰に加工されたりしました。土砂が泥堆積した結果、遺跡の大部分は地中に埋もれ、草が生い茂る放牧地となったため、人々から「カンポ・ヴァチーノ(Campo Vaccino=牛の放牧場)」と呼ばれるまでに至りました。
近代における発掘と保護
19世紀初頭、ナポレオン支配下の考古学的関心を背景に本格的な発掘調査が開始されました。特に19世紀末から20世紀初頭にかけて考古学者ジャコモ・ボーニ(Giacomo Boni)らによって科学的かつ組織的な発掘が進められ、埋もれていた広場全体と各建造物の基礎群が現代の姿へと掘り出されました。エリア内で出土した貴重な美術品や遺物は、敷地内にある「フォロ・ロマーノ美術館(Museo del Foro Romano)」(旧サンタ・マリア・ノーヴァ修道院内)や、隣接するカピトリーノ美術館などに収蔵・展示されています。
主要な建築・遺構コレクション
- 元老院議事堂(Curia Julia): カエサルが着手しアウグストゥスが完成させた政治の中枢。7世紀に教会として転用されたことで奇跡的に保存状態が良く、当時の空間構造を完璧に残しています。
- セプティミウス・セヴェルス帝の凱旋門(Arco di Septimius Severus): 紀元203年、パルティア遠征の勝利を記念して建てられた三連の巨大な意匠を誇る凱旋門。
- ティトゥス帝の凱旋門(Arco di Tito): 紀元81年建設。エルサレム包囲戦での勝利を描いたレリーフが刻まれており、ユダヤの聖なる道具(七枝の燭台・メノーラー)を運ぶ兵士の姿が精密に浮き彫りにされています。
- サトゥルヌス神殿(Tempio di Saturno): 奉納箱(国庫)が保管されていた神殿。現在も立ち並ぶ8本のエレガントなイオニア式コラム(柱)は、フォロ・ロマーノを代表する景観となっています。
- マクセンティウスのバシリカ(Basilica di Massenzio): 4世紀初頭に完成した古代ローマ最大のバシリカ遺構。巨大な交差拱頂(ヴァウルト)構造の断片は、後のルネサンス・バロック建築(サン・ピエトロ大聖堂など)の技術的模範となりました。
Via Sacra (ヴィア・サクラ)
フォロ・ロマーノの中央を東西に貫く石畳の主要道路は「ヴィア・サクラ(聖なる道)」と呼ばれます。将軍や皇帝が出征から帰還した際の「将軍の凱旋式(Triumphus)」の公式パレードルートであり、市民の熱狂的な喝采の中で豪華な戦利品や捕虜が練り歩いた歴史的舞台でした。
Tempio del Divo Giulio (カエサル神殿)
紀元前44年3月15日に暗殺されたユリウス・カエサルの遺体が市民によって火葬された場所には、後に「カエサル神殿(Tempio del Divo Giulio)」が建造されました。神殿の壇上跡(火葬塚とされる場所)には、現在でも世界中から訪れる人々によって絶え間なく生花が手向けられています。
グランド・ツアー
フォロ・ロマーノの荒涼とした巨柱や崩れたアーチの風景は、17〜19世紀のグランド・ツアー(ヨーロッパ諸国の富裕層青年による教養旅行)において絶対的な目的地となりました。ピラネージによる精密な銅版画や、ゲーテ、バイロンといった詩人・作家たちの文学作品に強いインスピレーションを与え、西洋における「遺跡趣味(ルイン・ロマンティシズム)」や近代考古学の発展を決定づける原動力となりました。
Monumento nazionale a Vittorio Emanuele II (ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂)
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂(Monumento nazionale a Vittorio Emanuele II)は、イタリアの首都ローマの中心地、ヴェネツィア広場に面して佇む極めて巨大な白亜の建造物です。通称「ヴィットリアーノ(Vittoriano)」、あるいは「無名戦士の祭壇(Altare della Patria)」とも呼ばれ、近代イタリアの国家形成とアイデンティティを象徴するもっとも重要な国家記念碑の一つです。
成立の経緯と建設の背景
建設は、統一イタリア王国の初代国王であるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(在位:1861年 – 1878年)の業績を称えることを直接の目的として始まりました。1878年にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が死去すると、誕生間もない統一イタリア政府は、新国家の統一と自由、そして近代国家としての権威を象徴する巨大な記念碑の建立を決定しました。建設地には、古代ローマの政治・宗教の中心地であった「カンピドリオの丘」の北側斜面が選ばれました。これは、古代ローマ帝国の栄光と近代イタリア王国の継承性を強く意識した立地選定でした。
1880年と1882年に国際設計コンペティションが実施され、最終的にマルケ州出身の若手建築家ジュゼッペ・サッコーニ(Giuseppe Sacconi)のプランが採用されました。1911年、イタリア統一50周年を記念する万国博覧会の一環として、国王ヴェネツィア2世の孫にあたるヴィットーリオ・エマヌエーレ3世のもとで未完成ながら盛大な公式落成式が執り行われました。その後も細部の装飾工事や内部施設の整備が続けられ、すべての工程が完了したのは1935年のことです。
美術的特徴
ヴィットリアーノは、幅135メートル、高さ81メートル(ブロンズ像を含む)におよぶ圧巻のスケールを誇り、新古典主義様式を現代的に再解釈した特異な建築デザインを持っています。建築の最大の特徴は、外装にロンバルディア州ブレシア産の「ボッティチーノ大理石(Botticino)」が全面的に使用されている点です。ローマの歴史的建造物の多くが温かみのあるトラバーチン(黄色がかったテラコッタ調の石材)で作られているのに対し、ヴィットリアーノの眩いばかりの純白さは強烈な異彩を放っています。このコントラストは、古代の遺構や中世の街並みの中で一目際立つ国家のランドマークとしての効果を生み出しています。
- ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の騎馬像:建物の中央、最も目立つ高台に鎮座する巨大なブロンズ製の騎馬像は、彫刻家エンリコ・キアラディアの手によるものです。像の高さは12メートル、長さは10メートルに及び、完成時にはその内部で関係者が祝宴を開いたという逸話が残るほど巨大な構造物です。
- 無名戦士の祭壇(Altare della Patria):騎馬像の下方、正面中央のテラスに位置するのが「無名戦士の祭壇」です。中央にはローマ女神(Dea Roma)のレリーフが彫られ、その両脇には「労働の勝利」や「祖国への愛」を表現した壮大なアレゴリー(寓意像)の浮き彫りが施されています。
- 頂上の四頭立て馬車(クアドリガ):最上部の左右の翼の上には、ブロンズ製の青銅像「四頭立ての馬車(クアドリガ)」が配置されています。左側の像は「自由(Libertà)」を、右側の像は「統一(Unità)」を象徴しており、建物のシルエットをさらに威風堂々としたものに仕立て上げています。
内部施設と屋上展望台(テラッツァ・デイ・クアドリガ)
建造物の内部には、イタリア統一運動の歴史的資料や兵器、旗などを展示する「リソルジメント博物館(Museo Central del Risorgimento)」や、軍事歴史文書館が併設されています。また、建物の裏手には2007年に最新のパノラマエレベーターが設置されました。ここから一気にアクセスできる最上部のテラス(テラッツァ・デイ・クアドリガ)は、ローマ市内で最も高いビューポイントの一つであり、南側に広がるフォロ・ロマーノやコロッセオ、西側のバチカン市国やサン・ピエトロ大聖堂、北側のヴェネツィア広場など、360度の大パノラマで「永遠の都ローマ」が一望できる絶景スポットとして非常に高い人気を誇っています。
Mercati di Traiano Museo dei Fori Imperiali (トラヤヌスの市場)
トラヤヌスの市場・帝国議事堂広場博物館(Mercati di Traiano Museo dei Fori Imperiali)は、ローマのフォロ・ロマーノやコロッセオに近接する古代ローマ世界の複合建築群であり、それを活用した博物館施設です。古代ローマ帝国の繁栄期に築かれた壮大な都市構造を今に伝えるとともに、古代ローマの「フォリ・インペリアリ(帝国議事堂広場群)」に関する出土品や建築彫刻を統合的に展示する拠点として、きわめて重要な役割を果たしています。
古代ローマ時代(2世紀初頭)
「トラヤヌスの市場(Mercati di Traiano)」は、古代ローマ帝国第13代皇帝トラヤヌス(在位:98年 – 117年)の命により建設されました。ダキア戦争(現在のルーマニア周辺での戦い)の勝利によってもたらされた莫大な富を財源として、大規摸な都市再開発事業の一環として計画されたものです。
建築を手掛けたのは、古代ローマ史上最も高名な天才建築家の一人であるダマスカスのアポロドロス(Apollodorus of Damascus)でした。彼は、カンピドリオの丘とクイリナーレの丘の間にあった斜面を大規模に切り開くという極めて高度な土木技術を駆使し、紀元107年から110年頃にかけてこの複合施設を完成させました。
20世紀初頭(1926年〜1934年)、ファシスト政権下のムッソリーニによる都市再開発計画に伴い、中世以降の増築部分が大規模に撤去され、古代ローマ時代の遺構が姿を現しました。
博物館としての誕生(2007年)
発掘と修復作業が長期にわたって進められた後、2007年に遺構そのものを活用した最新の体験型施設「帝国議事堂広場博物館(Museo dei Fori Imperiali)」が正式に開館しました。これにより、単なる遺跡の屋外見学にとどまらず、発掘された建築部材や装飾を学術的に復元・展示する現代的なコンプレックスへと生まれ変わりました。
建築上の特徴
トラヤヌスの市場は、歴史上世界最古の「ショッピングモール」や「総合行政センター」と形容されることが多く、その先進的な建築技術は現代の都市建築の原点とも称されます。
レゴリスとコンクリート(オプス・カエメンティキウム)の駆使
建築には、古代ローマが得意としたコンクリート技術(オプス・カエメンティキウム)と赤レンガ(オプス・ラテリキウム)がふんだんに使用されています。斜面に沿って6つの階層(レベル)が階段状に配置されており、半円形の巨大な外観がシルエットを印象的なものにしています。
交差ヴォールトとアーケード構造
施設内部の中心を貫く「大ホール(Grande Aula)」は、2階建ての構造を持ち、天井部には6つの連続した巨大な交差ヴォールト(Vault)構造を持つ天井が架けられています。この構造により、柱を最小限に抑えつつ、自然光を採り入れる高窓(クレーストリー)を備えた大空間を実現しました。内部には「タブテルナ(taberna)」と呼ばれる150以上の小さな小部屋(店舗兼事務所)が並び、商店、事務所、あるいは食糧の無償配布施設(アナモーナ)として使われていたと考えられています。
「ミラノ」に続く