ハンブルク・ビートルズの足跡

Screenshot

ビートルズとハンブルク

1960年8月から1962年12月までの約2年間に、世界的なロックバンドであるビートルズは通算5回にわたりドイツのハンブルクに滞在していました。彼らはその間に、ザンクト・パウリ地区のクラブを中心に、約280回、合計2,000時間以上におよぶライブパフォーマンスを行いました。

ハンブルク渡航前のビートルズは、リヴァプールのアマチュアバンドであり、初期の5人のメンバーもハンブルクでのライブ実施が決まったことを受けて、急遽決定したものでした。特に初回および2回目の滞在中の労働環境は過酷で、連日長時間演奏を余儀なくされていました。ザンクト・パウリという歓楽街でのこの経験が、結果的に、彼らの高い演奏技術、タフなステージパフォーマンス、そして広範なレパートリーを養うこととなりました。

メンバーの1人であるジョン・レノンは、「自分はリヴァプールで生まれたが、育ったのはハンブルクだ(I was born in Liverpool, but I grew up in Hamburg)」と後に回想していますが、ハンブルクは、ビートルズがプロのロックバンドへ成長していく「修行」の地であったといえます。

そもそも何故彼らはハンブルクに来たのか?

これについて、ドイツの週刊誌『フォーカス』(2010.8.17)にその経緯を紹介した記事がありましたので、それを要約しておきたいと思います。

1960年当時のイングランド北部の港町リヴァプールでは、華やかな音楽シーンが台頭しつつありました。どのクラブ、どのリハーサル室からも、スキッフルとロックンロールが融合した「マージー・サウンド」が轟いており、リヴァプールの若者たちの多くは、ギターやドラム、ベースを手に、一攫千金で名声と富を手に入れるという目標を抱いていました。

同じ頃、ドイツ北部の別の港町では、ブルーノ・コシュミダー(Koschmider, Bruno)という興行主が、自身のクラブ「インドラ」で、こうした新鮮でトレンディなバンドを招いて店を繁盛させようと考えていました。そこでビジネスパートナーである英国人マネージャー、アラン・ウィリアムズに打診するのですが、それは期待外れの結果に終わります。当時話題の新人バンド「ロリー・ストーム・アンド・ザ・ハリケーンズ」、「キャス&ザ・カサノヴェス」、そして「ゲリー&ザ・ピースメイカーズ」は、すでにスケジュールが埋まっていたか、あるいはハンブルクで演奏する気がありませんでした。ウィリアムズは代わりに、経験の浅いバンド「ザ・シルバー・ビートルズ」をコシュミダーに提案しました。この決断こそが、世界的なキャリアの礎を築くこととなります。

1960年8月16日、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、スチュアート・サトクリフ、ピート・ベストは、ウィリアムズとその妻、友人たちと共に、ベッドフォード10/12型バンに乗り込み、ハンブルクへと旅立ちます。車はぎゅうぎゅう詰めでした。若者たちはアンプや楽器を積むために、車の座席をすべて取り外していました。サトクリフを除き全員が20歳にも満たないミュージシャンたちは、出発直前にドラマーであるベストをバンドに新加入させていました。それは、コシュミダーがバンドにドラムが入っていることをを出演の絶対条件としていたからでした。

リヴァプールのバンドの間では、ハンブルクは手っ取り早く金を稼ぐための「穴場」と見なされていました。またハンブルクの歓楽街の観客は、ワイルドでエンターテインメント性豊かなステージを渇望していました。

8月17日、夜遅く、ミュージシャンたちはハンブルクに到着しました。ウィリアムズはこの地区の大物との契約書に署名しました。イギリス人若者たちは、パーティーや音楽、そして女性たちとの交流という数週間を期待していました。しかし、彼らを待っていた現実は全く違うものでした。ビートルズとの契約では、この新進気鋭のミュージシャンたちが6週間にわたり、平日には1日4時間、土日は6時間演奏することが定められていました。もともとビートルズは、楽器のローンを返済するためにハンブルクに来ていたのですが、期待していた大金は手に入りませんでした。コシュミダーがミュージシャンたちに支払ったのは、1人1公演あたり30マルクでした。

ビートルズゆかりの地

インドラ・クラブ(Indra Club)

住所: Große Freiheit 64

1960年8月17日(〜10月)、ビートルズがハンブルクで初めてステージに立った記念すべきクラブです。劇場の所有者であり興行主であったブルーノ・コシュミダーに雇われた彼らは、元ストリップ劇場であったこの店で初公演を行いました。コシュミダーは、歓楽街の観客の要望に応えるために、彼らに激しいアクションと観客を煽るパフォーマンスを叩き込みます。彼らの後の演奏スタイルは、ここでその原型が形作られています。ただしその労働環境は過酷なもので、平日は1日4時間、週末は6時間におよぶ演奏スケジュールが組み込まれていました。しかしながら近隣住民からの騒音苦情により、ビートルズが出演を始めてからわずか2ヶ月半でインドラ・クラブはライブハウスとしての営業停止を命じられることになります。

インドラ・クラブはその後、長年にわたりストリップクラブやアダルトショップなど経営形態を変えながら存続し続けます。現在は再び音楽ライブハウス「Indra」として営業を再開しており、ビートルズゆかりの地として世界中からファンが訪れる観光スポットとなっています。

(ライブハウス「インドラ」)

バンビ・キノ(Bambi Kino)跡地

住所:Paul-Roosen-Straße 33

この1960年8月からの初回のハンブルク滞在時に、ビートルズが寝泊まりさせられていた場所は、やはりコシュミダーが経営していたバンビ・キノと名前の映画館でした。彼らが寝泊まりさせられていた2つの部屋は、その物置部屋で、窓も暖房もシャワーもありませんでした。部屋はトイレのすぐ隣、映画館のスクリーンの真後ろにあり、臭気と絶え間ない騒音、終わりのない明滅の中で、睡眠などは不可能でした。ビートルズはこの宿に「カルカッタのブラック・ホール」というあだ名をつけ、ビールと興奮剤を混ぜて飲みながらコンサートを乗り切っていました。

映画館自体は既に廃業・解体されており、現在は住宅・商業ビルが立っていますが、建物壁面にビートルズがここに宿泊していたことを示す小さな記念プレートが掲げられています。

(バンビ・キノがあった場所)
(ビートルズが住んでいたことを示すプレート)

カイザーケラー(Kaiserkeller)と一回目の遠征の終了

住所:Große Freiheit 36(現「Große Freiheit 36」地下)

インドラ・クラブが1960年10月に閉鎖された後、ビートルズは前述のコシュミダーが経営していた別の大型クラブ「カイザーケラー」に活動の場所を移すことになります。またここで彼らは同郷バンドであり、当時より知名度が高かった「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」と共演することになります。そのドラマーが、後にビートルズのメンバーとなるリンゴ・スターでした。またビートルズは、このクラブの常連客であった地元アート系の学生アストリッド・キルヒヘルやクラウス・フォアマンと親交を深めます。彼らは、アストリッドの提案により「マッシュルーム・カット(モップトップ)」や洗練されたファッションを取り入れることになります。このカイザーケラーは、ビートルズの初期ビジュアルイメージが完成した場所といえます。

(カイザーケラー)

ビートルズは、コシュミダーの店と当時競合関係にあった同じくザンクトパウリ地区にあるトップ・テン・クラブで数回公演を行っていました。コシュミダーはこれに腹を立て、ビートルズに対して嫌がらせを行います。ビートルズ最年少のメンバーであるジョージ・ハリスンが、当時未成年(17歳)でありながら、22時以降もトップ・テン・クラブで演奏していたことを理由に彼を警察に通報します。コシュミダーが経営するカイザーケラーでも、ジョージは連日22時以降、ステージに立っていたにもかかわらずです。その結果、1960年11月21日にジョージは、国外退去処分を受けます。その後、残ったメンバーは、バンビ・キノの宿を引き払い、トップ・テン・クラブと契約することにします。11月29日、ポール・マッカートニーとピート・ベストは荷物をまとめ、バンビ・キノを去りますが、その直後二人は警察に逮捕され、すぐそばにあるダヴィッドヴァッヘの留置場で一晩を過ごすことになります。容疑は、バンビ・キノに対する放火でした。彼らの部屋で火がくすぶっており、それは二人が部屋を出た直後であったというコシュミダーの証言に基づくものでした。その後ポールとピートの二人も国外退去処分となります。残されたサトクリフとジョンの労働許可も取り消されたため、彼らは3人の後を追う形でリヴァプールに戻ります。こうして、ビートルズの最初のハンブルク遠征は1960年11月に、やや唐突な形で幕を下ろすことになります。

(カイザーケラーにあるビートルズがここで演奏していたことを示すプレート)

(訳文:1960年のある日、リヴァプールからきた5人の若いミュージシャンが、グローセフライハイト通りにあるこのカイザーケラーの当時まだ小さな、そしてガタガタの舞台に登っていった。その5人とは、後にビートルズとして世界的に有名になるピート・ベスト、ジョージ・ハリスン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、そしてスチュアート・サトクリフであった。サトクリフは1962年に夭折し、同じ年にリンゴ・スターがピート・ベストの地位を引き継いだ。トップテンとスタークラブを経て、彼等は比類無いキャリアのスタートを切った。この記念碑は、1990年2月23日に、このグループのステージ初登場30年を祝うパーティー開催を記念して、除幕されました。)

(今も現役のダヴィッドヴァッヘ(警察署))

カイザーケラーは一度も途切れることなく音楽クラブとしての歴史を維持し続けています。現在は複合エンターテインメント施設「Große Freiheit 36」の地下フロア(地下ライブハウス)として営業を継続しています。ロックやオルタナティヴ・ミュージックのイベントが連日開催されており、当時の熱気をそのまま体験できる数少ない場所です。

トップ・テン・クラブ(Top Ten Club)

住所:Reeperbahn 136

1961年3月27日〜7月2日にかけてビートルズはハンブルクへの2回目の遠征を行います。この時のライブ・パフォーマンスの主たる舞台となったのが、トップ・テン・クラブです。ビートルズは、コシュミダーとの独占契約を破棄し、ライバル経営者であったペーター・エックホルンが運営する「トップ・テン・クラブ」へ移籍します。ただし労働条件は前回とそれほど変わらず、1日約6〜7時間、92日連続(延べ演奏時間500時間以上)という凄まじいハードスケジュールで出演していました。他方、音響設備や待遇は前回よりも遥かに良く、楽屋や宿泊環境も大幅に改善されます。

またこの時代に先輩歌手であったトニー・シェリダン(Tony Sheridan)のバックバンドとして初録音を行い、「My Bonnie」などのレコードを制作しています。これがリヴァプールのレコード店店主であり、後にビートルズのマネージャーとなるブライアン・エプスタインの目に留まることになります。トップ・テン・クラブは、ビートルズが地元限定のバンドから世界的スターへの階段を駆け上がっていった決定的な場所といえます。

(トップテン・クラブがあった場所。左上にビートルズが演奏したことを示すプレートが見えます)

ベーシストのスチュアート・サトクリフは、その間にアストリッド・キルヒヘルと恋に落ち、またもともと美術家を目指していた彼は、美術の道へ進むことを決意して2回目のハンブルク演奏終了後バンドを脱退します。その後、ベースはポール・マッカートニーが担当し、バンドとしては4人体制となります。ハンブルクに残ったサトクリフは、1962年4月にビートルズが3度目のハンブルクツアーを行う直前に脳出血のため21歳という若さで急逝します。

頂点と旅立ち:スター・クラブ跡地(Star-Club)

住所:Große Freiheit 39(現在は記念銘板があるだけです)

1962年4月13日に上記の住所にStar-Clubという名称の新たなライブ・ハウスが開館しました。すでに名声を博していたビートルズは、そのこけら落としの目玉としてハンブルクに3回目の来訪を果たします。ビートルズは、ポールがベースへ転向した4人体制となっていましたが、演奏・パフォーマンスともに街一番の存在へと成長していました。この会場で1962年末までに彼らは同クラブで3回の長期公演を行います(4〜5月、11月、12月)。その合間の同年10月には「Love Me Do」で待望のシングルデビューを果たすことになります。また8月には、突如としてドラムのピート・ベストが解雇され、旧知のリンゴ・スターが新たなドラマーとしてビートルズに加入することになります。1962年12月31日のスター・クラブ公演をもって彼らはハンブルクでのレギュラー出演を終え、世界的なスターとしての道を歩んでいくことになります。

スター・クラブ自体は、1969年11月に経営悪化のため閉店します。その後、建物はエロティック劇場などとして使われていましたが、1983年に大規模な火災が発生して全焼し、その後建物は完全に解体されます。現在はこの地には建物は存在せず、跡地は広場・路地となっています。その壁面にはかつてここにスター・クラブが存在し、ビートルズやジミ・ヘンドリックスなどの伝説的ミュージシャンが出演したことを証明する石造りの記念銘板(石碑)が設置されています。

(スター・クラブがあったことを示すプレート)

ビートルズ・プラッツ(Beatles-Platz)

場所:ReeperbahnとGroße Freiheitの交差点

ここにはビートルズの功績を称え、2008年に記念広場が作られました。広場全体が巨大な黒いビニールレコードを模したデザインとなっており、縁にはヒット曲のタイトルが刻まれています。広場に立つ5人のメンバーの彫像(シルエット像)は、1960年8月の初ドイツ滞在時の編成となっています。当時のメンバーは、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、ピート・ベスト、そしてベーシストのスチュアート・サトクリフの5人です。

最新情報をチェックしよう!